文字による描写の可能性と映像の限界

 トム・クランシーとマーク・グリーニー共著のアクション小説『米中開戦』の全4巻を読み終えました。全4巻といっても新潮文庫は1巻当たりのページ数が少ないので、分量的にはそれほど多くはありません。通勤で使う駅で電車を待つ間や電車に乗っている時間を利用して読み進めました。会社の帰りで疲れていても、この小説を読んでいる時は眠たくなりませんでした。

 今回のストーリーは、中国がアメリカに対してサイバー攻撃を仕掛けるところから始まり、最後の方ではサイバー空間ではなく、リアルな空間での戦闘へ至ります。この小説が出版されたのは2012年ですが、その頃に既に現在のサイバー空間における戦争を予言しているかのような内容でした。こういうコンピューター関係の物語においては、ハッキングをして情報を盗み取ったりするシーンで、その人物がコンピューターサイエンスにおいて凄い技量の持ち主だということにいかにリアリティを持たせて読者を納得させるかがキモとなります。これが映画やテレビドラマですと、キーボードをガチャガチャと高速で叩いてあっという間にハッキングを成功させるか、あとはその人物の外観をいかにもコンピューターオタクっぽくするぐらいしか表現方法が無く、そんなものでは今時の視聴者は納得せず、映像で表現出来ることの限界を感じてしまうのでした。それに対して小説では、映像では出来ないレベルの描写が可能で、今回のこの『米中開戦』では、そのあたりがかなり上手く表現されていました。

 以前にもブログに書いたことがありますが、「アクション」というジャンルは一見、映像の方が伝わり易いと思われがちですが、実は文字で表現した方が断然面白いことが多々あり、どんなに映像技術が進歩しても、古典的な表現方法である「文字による描写」の方が優っていることが多く、文字のパワーを再認識したのでありました。これは恐らく、文字によってそれぞれの読者の頭の中でイメージが膨らむからなのでしょう。映像は、映画監督やディレクターが作ったもので、それ以上でもなければ以下でもありません。一方の小説の場合は、各読者の頭の中で、自由にイメージが創られます。例えば、「今までに見たことも無いような青い空」というものを描写する場合、映像だと画面に青い空を映すしか方法が無くて、しかもその映像は固定されたひとつのもので、それを美しいと感じる人もいれば、そうでない人もいるでしょう。一方、文字で「今までに見たことも無いような青い空」と書いてあるのを読んだら、読者がそれぞれの感覚でその青い空を思い描き、その美しさを感じることが出来てしまいます。文字による表現のこのような可能性の広さは、例えば落語という演芸の面白さと通底するものがあるように思います。

米中開戦 4 (新潮文庫)

米中開戦 4 (新潮文庫)