昔の上司

 会社でいつものように自分のデスクで仕事をしていると、誰かがフラッと部屋へ入ってくるのが見えました。よく見ると、以前この部署にいて随分前に退職した人でした。「いやぁ、近くまで来たもんだからさぁ」とか言って、部屋の入口付近にいる社員に話しかけていました。その人はかつて私の上司であったこともあり、ひどく怒りっぽくて、私などもよく罵倒されたりして、現在の基準で言えば完全にパワハラに該当するのでしょうが、当時はそういったコンプライアンスが厳しい時代ではなかったので、立場的に下である者はただ黙って耐えるしかありませんでした。いや、黙って耐えるだけでなく、こんなやつ死ねばいいのに、と思っていたら、ある日突然その人は心臓発作か何かで倒れて病院へ担ぎ込まれたのでした。それは私の思いが通じて神様が天罰を下したのでは勿論なくて、恐らくはいつもイライラして血圧が高かったりしたこと等の原因が積み重なっていった結果なのだと思われます。しかし、その後回復してまた元のポジションに復帰したのでした。

 そんな出来事が走馬灯のように(嫌な走馬灯だな)記憶の中でぐるぐると回りつつ、私の方へ来なきゃいいのになぁ、と思っていると私の方へやって来ました。当時はまだ黒かった髪はすっかり真っ白になり、相変わらずお腹はたるんではいるものの、身体はひとまわり小さくなったように見えました。あの当時のいつもイライラしている雰囲気は微塵も無く、ニコニコと柔和な表情をしており「どぉ?元気っ?」と話しかけてきました。あんたがいなくなってからは随分と元気さっ、と言いたいのを我慢して「お陰様で、元気にやらせて頂いております」と返事をすると、彼は訊いてもいないのに自分の近況について話し始めました。ただのんびりと過ごすのではなく、町内の老人会的な組織のリーダーになって、月に1回以上のペースで様々なイベント(音楽のコンサートに老人たちを連れていったり、落語家を招いて生で噺を聞いたり)を開催するなど、かなり活動的な日々を過ごしているとのこと。「いやぁ、すごいですね、私なんぞにはとてもそんなことはできませんですわぁ」と言うと、退職してから始めようとしても上手くいくものではなく、退職前から徐々に活動を開始してネタや情報を集め人脈を広げておくことが肝要であり、君もそうした方がいいぞ、と言いました。やかましいわと思いつつも「なるほど、そうなんですねぇ」と適当に相槌を打ちつつ、その後も彼の話は続き、夕方の定時を過ぎてしばらくした頃にようやく終わり、「また近くに来たら是非寄ってくださいね」と心にも無いことを言ってお見送りしました。それにしても、退職してからも元の職場に来る人って、コントやお芝居では見たことがあるような気がするけど、本当にいるんだなぁ、しかも手ぶらで。