甘酸っぱい記憶

 毎年この季節になり、スーパーの果物売場に春みかんの「きよみ」が並んでいるのを目にすると必ず思い出すことがあります。それは東京の大学に通っていた頃のことです。私は仲の良い4〜5人の男子の友達とだいたいいつも行動をともにしていました。そういう何となく、いつの間にか出来上がったグループみたいなものがクラスの中に男女別々にいくつかありました。その中に私たちのグループと割と仲が良い女子のグループがありました。東京、埼玉、群馬など関東出身の女子5名からなるグループで、みんなそれなりに着ている服も持っているバッグもオシャレで、田舎から出てきたばかりの青年(私のことですけど)にとっては眩しい存在でした。

 ある日の昼下がり、講義が始まる前の教室の一角で、確か提出期限が迫ってきているレポートか何かについて私たちのグループとその関東出身系女子のグループで情報交換をしている時だったと思うのですが、私は特に何かを意識することもなく、空いていた椅子に適当に腰を下ろし、レポートの内容について情報を得ようと身構えておりました。私の目の前には関東出身系女子のうちのひとりが座っていました。そしてふと視線を上げた際に、彼女が着ているTシャツの丸い襟から下着の肩ヒモが見えているのが目に飛び込んできました。それまではそういう類のものを生で見たことがあまり無かった私は、とてもドキドキしたことを覚えています。それがきっかけで、その子のことが何となく気になるようになり、例えば授業の実習とか実験のグループが同じになったりすると、必要以上にドキドキするというシチュエーションが何度かありましたが、結局その子とはそれ以上の関係にはなりませんでした。その子にしてみれば、そんなことがきっかけで私がドキドキしているなんて知る由も無かったでしょうし、大勢いるクラスメートのうちのひとりぐらいの認識でしかなかったと思います。その子の名前は「きよみ」といいます。卒業して随分と年月が経ったにもかかわらず、「きよみ」という文字を目にする度に(目にするのは、スーパーの果物売場以外ではまずありませんが)、あの時の光景が蘇ってきて甘酸っぱい想いが湧き上がってくるのでした。

 さすがに今では、肩ヒモが見えたぐらいでは何とも思わないし、そういうものに対して感じるのはトキメキというよりはむしろズボンのチャックが開いているのを見てしまった時のような「見苦しさ」かもしれません。
 些細なことで心が乱れるメンドクサイ年代を過ぎ、動じないメンタリティが身に付いたことにホッと安堵している反面、それと入れ替わるような形で10代、20代の頃に持っていた精神性が自分の心の中から消えていくのは寂しい気がします。と言いますのは、春先にスーパーで「きよみ」という文字を目にしたときに蘇ってくるものの強さとかボリュームが年々少しずつではありますが弱く小さくなっているような気がしないでもないのです。今でこそまだ、あの時の教室の窓から入り込んでいた日差しの柔らかさといった細部に至るまでリアルに心の中で再現できるのですけれど、思い出の風化は油断していると急速に進み、気が付いたら思い出せないようになってしまっているかもしれません。そういう日がいつかやってくるかもしれないなという小さくて静かな怯えを心の隅に抱えつつ、「きよみ」がスーパーの店頭に並んでいるあと暫くの間は、この甘酸っぱい記憶の中に浸っていたいです。