バスが遅れて

 先日、仕事関係のセミナーに出席しました。午前中は普段通りに仕事をして、午後から会社の近くのバス停からバスに乗って名古屋駅前の会場へ向かいました。バスの時刻表は事前に確認し、数分前にバス停へ行って待っていました。しかし、時刻表に書いてある時刻になってもバスはきません。でもまぁ、バスが遅れるのは珍しいことではないので、そのまま待っていたのですが、なかなかやってきません。目の前の道路の車の流れを見ても、特に渋滞しているわけではないし、いくら何でもこんなに遅れることがあるのか、とイライラしていると、定刻から15分も遅れてバスが来ました。
 名古屋駅へ向かう途中のあるバス停で停車すると、運転手がエンジンを切り、席を離れてバスの中央付近へ行きました。何をするんだろうと思っていたら、車椅子に乗った高齢の女性をバスから降ろす作業をしていました。車椅子を固定してあった帯を解き、昇降口にスロープを渡し、車椅子を押してその乗客を降ろしました。この一連の作業のため、バスが再び動き出すのに数分間待つことになりました。この間、他の乗客は待っているしかないのですが、私はセミナーの会場に遅れやしないかと心配になり、かなりイライラしてきて「全くもう、早くしてよね!」と勿論声には出しませんが、心の中で毒づいていました。

 私は普段は、お年寄りとか体の不自由な方に対しては温かい気持ちでいるつもりですし、何か私が出来ることがあればサポートしてあげたいし、実際にちょっとした手助けをしたこともあります。しかし、いざ、自分が何か直接的に迷惑を被るような状況(今回の場合では、バスが遅れたせいでセミナーの開始に間に合わない)になると、弱者に対する温かい気持ちが吹き飛んでしまいます。それも割と簡単に吹き飛びました。これには私も驚きました。私の弱者に対する思いやりが、本物なのかどうかを神様に試されたような気分でした。と言うより、神様は私の「思いやり」が実は偽物だというをとっくに見抜いていて、その事実を私の目の前に突きつけてきたのかもしれないな、などと解釈してみたりしました。こういうシチュエーション、つまり自分が何らかの不利益を被る状況にあってもなお弱者に対して温かい思いやりを変わらずに持ち続ける人というのはエライなぁ。身体はトレーニングを積めば鍛えることが出来るし、勉強すれば知識を増やすことは出来るけれど、心を、弱い立場にある人への思いやりの心を育むには何をすれば良いのだろうか?私の場合は、そういう境地に達することなく、一生このままのような気がします。

 結局、バスは予定よりも30分も遅れて名古屋駅へ到着しましたが、バスを降りてから会場まで汗だくになって走ったので、セミナーの開始には何とか間に合いました。