昨日のブログに書いたウォーキングについて話している時に、その人は、子供の頃に引っ越す前に住んでいた街を歩いたとも言っていました。その頃と今とでは変わってしまったものもあったけど、変わらないものもあって懐かしかったと。変わった、というか無くなったものの代表は駄菓子屋で、今でも営業しているお店は無かったとのこと。
駄菓子屋に関しては、もしも自分で駄菓子屋をやるとしたらどんなふうにするだろうかとシミュレーション(妄想)してみたことがありますが、ちょっと調べてみたら想像以上に儲けが少ないことが判明し、そうした妄想はしなくなりました。駄菓子屋の客というのは子供なので、少子化が進んだ現代日本では客(子供)の絶対数が少なくて商売にならないのは当然として、仮にそうでなくても子供相手なので商品単価は安いものばかりで、たくさん売れても儲けは極わずか。例えば「うまい棒」は売価が1本10円(消費税別)なのに対して仕入値が8円ぐらいだそうで、1本売れても2円の利益しか出ず、そこからお店の光熱費などの経費を引くと儲けは更に少なくなってしまいます。駄菓子屋の1日の売上は千~数千円、儲けは1,000円程度というところも少なくないようですし、子供の数が多かった昔でさえ大した収入にはならなかったようです。では何故駄菓子屋などという商売が存在したのかというと、儲けるため、生活資金のためというよりは、お年寄りに店番をさせて、小遣い稼ぎとボケ防止のためという性格が強かったのだと思います。私の小学生時代を思い返してみても確かにお年寄りが店番をしていました。小学校から少し離れたところにあった駄菓子屋は、〇〇商店というちゃんとした家号がありながら、店をやっているのがお爺さんとお婆さんだったので、子供達の間では「じじばば」と呼ばれていましたし、また別の駄菓子屋は大黒(だいこく)町という町にあったので子供達からは「大黒ババア」と呼ばれていました。また、旦那さんがサラリーマンとして働き、奥さんが駄菓子屋を担当するというパターンもありました。小学校の校門のすぐ前にあるような駄菓子屋であれば、ノートや鉛筆などの文房具や学校指定のもの(体育の時に着る服とか)を販売してそれなりの収入を得られたのでしょうが、子供の数が大幅に減ってしまった今は商売にならないのでしょう。そうであっても、気持ちとしてはあの頃あったような駄菓子屋がまた何処かに復刻版的に蘇ってくれたら嬉しいのになぁと思ったりします。