『かぜの科学』

かぜの科学:もっとも身近な病の生態 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

かぜの科学:もっとも身近な病の生態 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 あるラジオ番組を聴いていたら大阪大学大学院の仲野徹教授が「とても面白かった」と紹介していて興味を持ったので『かぜの科学』という本を読んでみましたら、確かに面白かったです。
 風邪というのは、一度も罹ったことが無いという人は恐らくほとんどいないんじゃないかと思いますし、中には毎年何度も風邪をひくという人もいるくらい身近な病気ですが、その詳しい病理は一般にはあまり知られておりません。昔から「風邪を治す薬を発明したらノーベル賞ものだ」とか「風邪が根絶されてしまったら、製薬会社とか街中の医者の商売があがったりなのでわざと風邪が治る薬を開発しないんだ」という都市伝説的なことも耳にしたことがあります。実際には、風邪の原因となるウイルスの種類が物凄く多く(数百種類)、またそれらがどんどんと変異していくので、ワクチンを製造してウイルスを狙い撃ちにすることは理論上は可能ですが、あまりにウイルスの種類が多いため事実上不可能。一度風邪をひくと、その風邪のウイルスを攻撃する抗体が人体の中で作られるので同じウイルスによる風邪はひくことはありませんが、その後の人生で同じウイルスに出会うことはほぼ無いので、何度も風邪をひくことになるわけです。
 仮に、風邪を治す新薬を開発しようとした場合、風邪に限らず新薬の開発には莫大な費用(数百億〜数千億円)がかかるので、出来上がった薬の販売価格は当然かなり高くなります。一方で、苦しい症状があるとはいえ、何もしなくても安静にしていれば1週間もすれば治ってしまう病気のために高い金を払って薬を買おうという人が採算を取れるほど存在するかどうか、という製薬会社側の損得勘定もあるのだそうです。

 また、この本の中には様々な”民間療法”、例えばチキンスープを飲むだとか、ハーブだとか、ビタミンCだとかが紹介され、それが本当に効果があるのかを検証していました。結果的には、そういったものには全く効果が無いとのことでした。ただ、ひとつだけ効果がありそうなものがありました。風邪に罹った人に優しい言葉をかけたり、愛情と気遣う心を持って接すると、風邪が治るまでの期間が平均で1日短くなったのだそうです。なんだ1日ぐらい、と思われるかもしれませんが、1日短くなるというのはかなり大きな違いなんだそうです(詳しいことはよくわかんないですけど)。我が母校の偉大なる卒業生であるライナス・ポーリング博士が提唱したビタミンCによる風邪の予防効果についてもそれを裏付けるような実験結果は出ていないようですし、一旦風邪をひいてしまってからビタミンCを摂取しても効果が無いようです。
 いろんな療法や予防法を検証していましたが、結局のところ風邪予防の最善策は「徹底した手洗い」に尽きるのだそうです。
 手からの感染というのは多く、手を清潔に保つことは非常に大切。その文脈で紹介されていたのが今はアメリカ大統領となったドナルド・トランプ氏のエピソード(この本が書かれた当時はまだ大統領ではありませんでしたが)。トランプ氏は他人の手に触れることを極端に嫌う人だそうで、欧米の習慣である「握手」を野蛮だと考えていて、2000年の大統領選挙で不本意ながら多くの人と握手せねばならなかった際に「私は日本のお辞儀という素晴らしい習慣を取り入れるのがいいと思う。それは相手に敬意を払うことになるし清潔ですからね。」と言っていたそうです。あのトランプ氏に、ロシアのホテルに高級売春婦を集合させて乱痴気騒ぎをしたあのトランプ氏に、シリアに59発のトマホークをぶち込んだあのトランプ氏に、そういう一面があるのはとても意外です。

 免疫力に関しては、「風邪をひかないように体の免疫力を高めよう!」みたいなことがよく言われます。確かにそれは一理あるのですが、風邪の症状(鼻水や咳とか発熱等々)というのは体に侵入してきたウイルスを撃退して体の外へ排除しようという免疫反応であり、免疫を強くするということは即ち風邪の症状をより一層ひどくすることになり、実際にそういった実験結果も出ているのだそうです。こうなると、じゃあ一体どうすりゃいいんだ、と思ってしまいます。

 あと、興味深かったのが「風邪の効用」。例えば、エイズウイルスなんていうものは、人間にとっては恐ろしいウイルスのひとつで、風邪なんかよりよっぽどコワイのですが、ウイルスどうしではエイズウイルスが風邪ウイルスよりも強いのかというと必ずしもそうではなく、風邪をひいているとエイズウイルスに感染しにくいとか、インフルエンザウイルスに感染しにくいという調査結果もあるのだとか。
 また、風邪をひいて仕事(とか学校)をお休みして、普段の慌ただしい毎日からちょっと離脱して体と心をリセットするのもまんざら悪いものでもないと書かれていましたが、確かにそれは言えます。風邪に対してあまり目くじらを立てるのではなく、うまく付き合っていくという観点も必要かなと思いました。
 そういえば『風邪の効用』という本もありましたので、そのうち読んでみたいです。

 それから、この『かぜの科学』を書いたのはジェニファー・アッカーマン(同名のモデルもいますが)というアメリカのサイエンスライター。日本だとこういう「サイエンスライター」という人があまりいません。いるのでしょうけど、欧米ほど活躍していないようです。日本だとどうしても有名大学のエライ先生が書いた本でないと売上も伸びなくて儲からないという出版社側の事情があるのかもしれません。しかし、お医者さんとか大学教授というのは専門分野に関しては深い知識を持っているのでしょうが、幅広い分野からいろんな研究結果を参照してきて読者が理解し易い言葉で説明するという技量においてはサイエンスライターの方が上だと思います。
 このジェニファー・アッカーマンの著書は他にもありそうなので是非読んでみたいです。

風邪の効用 (ちくま文庫)

風邪の効用 (ちくま文庫)

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