ヤモリを見て考えたこと

 梅雨入りする少し前、確か6月の初め頃、会社から帰宅して玄関のドアを開けようとした時に玄関脇の外壁に1匹のヤモリがいるのを見つけました。毎年この時期に姿を現すヤモリ、昨年のと同じ個体なのかは識別できませんし、こいつらは冬の間はどこに行っているんだろうかという疑問はありますが、何はともあれ今年も登場しました。玄関の照明に蛾などの虫が寄ってきて、それを捕食するためにヤモリがこの場所にやってきます。よく考えてみれば、小さいとは言え、こんなグロテスクな生き物を目にしても、びっくりしたり、駆除しようとしないのは、ひとえに「ヤモリは家を守ってくれる」という「物語」のおかげです。ヤモリにまつわる物語が例えば何かネガティブなものであれば、同じヤモリなのに大切にされることはなかったわけで、たまたま「良い物語」が割り当てられたおかげで、人間とヤモリが共存できていると言えるかもしれません。
 このヤモリの例に限らず、「物語」というのは人の思考や行動に大きな影響を及ぼすほどパワフルで、見回してみれば世の中はそういう物語で溢れかえっています。自分の心をフラットにして、あるがままの姿を捉えて自分の頭で考えて答えを出して行動するのではなく、手近な「物語」というフィルターを通して物事を判断して行動していることがいかに多いか。そういう「物語」によって、何かを好きになったり嫌いになったり、恋に落ちたり、結婚したり、選挙で誰に投票するか決めたり、甲子園の高校球児に感動したり、誰かと仲良くなったり悪くなったり、何かを恐れたり、時には戦争が始まってしまったり、自ら進んで戦地へ行ったり、等々。また、宗教においては、例えば聖書に書かれている物語は、抽象的なエッセンスだけを語ったところで伝わらないので、教養の無い人にでもその理念を理解できるように「物語」という形をとっているのでしょう。
 「物語」が直接というよりは、「物語」が感情を生み、その感情に突き動かされているのかもしれません。そしてその物語は、自然に発生した場合もあれば、誰かにとって都合が良いよう意図的に作られている場合も少なからずあるような気がします。

 さて、ヤモリの姿を見かけるようになって数日経ったある日、玄関脇の照明が点灯しなくなってしまいました。電気屋さんにすぐに修理を依頼しなかったり、ちょっと特殊な照明で部品を調達するのに日数がかかったこともあり、結局2週間ほど照明が点かない期間がありました。その間は、蛾が来ませんので、ヤモリも姿を表さなくなりました。やっと照明が灯るようになり、これでまたヤモリが来てくれるかなと期待していたのですが、一向にやって来ません。よく見ると蛾も来ていません。もしかしたら、虫を寄せ付けない波長の光をだす電球、つまり紫外線がカットされている電球なのかな?蛾が来ないのは嬉しいけど、ヤモリが来ないのは「家を守ってくれる」存在を失ってしまったようで、何だか少し心細い気持ちになります。ヤモリはあくまで蛾とセットになっていて、ヤモリだけというわけにはいかないというのは、「良い事があれば、悪いことがある」、「良い事と悪いことはコインの裏表の関係」という言葉を思い起こさせ、示唆的なのでした。