落書き

 最近は、もともと書く人が少ないのか、書いてもすぐに消されるのか、街の中で「落書き」を目にすることは少なくなったように感じます。しかし、割と不特定多数の人が出入りするけど一時的に外部の目から遮断される空間、例えば駅のトイレの個室などでは、いまだに落書きを目にすることがあります。でも、それさえも量的には昔に比べたら少なくなった感があります。今にして思えば、昔の落書きは、当時の「ツイッター」であり「2ちゃんねる」的なものであったのかもしれません。
 「トイレの落書き」に限って言えば(男子トイレの場合)その内容は、ほぼ100%が下ネタで、ご丁寧に「図解付き」のものもあります。
 ところが、これがアメリカのトイレの個室の落書きとなると、事情が少々異なり、その内容は、私が知る限り、「○○人は地獄で焼かれてしまえ!!!」といったマイノリティに対する人種差別的な内容が圧倒的に多かったです。アメリカは多種多様な民族から成っているので、人種間の軋轢に根深いものがあるのは事実と言えましょう。ちょっとしたことでもすぐに「人種差別だ!」となって訴えられかねないので、多くの人は分別のある大人に成長する過程で、自分とは異なる人たちへの振る舞い方を「そういう社会で隣人たちと共存していくための大切なスキルのひとつ」として会得していくようにみえました。
 普段は差別意識などおくびにも出さないのに、「トイレの個室」といういわば「完全な匿名が保たれる場所」で、あの国の人達がいったい何をぶちまけたいと思っているのかというと、真っ先に来るのが人種に関する事で、表面的にはお行儀良く振る舞ってはいても、本音の部分ではどう思っているのか知れたもんじゃないんだと感じて、ある種のショックを受けました。
 トイレの中の出来事だけを取りあげて、一般論であるかのように語るのは飛躍し過ぎで無理があるとは思いますし、本音の部分でも差別意識が無い人の方が実際には多いのかもしれませんが、「差別が生まれる根っこ」を垣間見たような気がしました。
 もしかしたら、たくさんの人種がひとつの国で暮らしているというシチュエーションがあるから、意識の底の方に隠れていた感情が、たまたまアメリカで分かり易い形で顕在化しているだけで、その感情を生み出す「種(たね)」となる資質は、どこの国の人にも、日本人にも、私の中にも内包されていて、それとは正反対の感情の種(愛?)も同時にデフォルトとしてセットされて人間は生まれてくるのかもしれません。