Tさん

 会社にTさんという男性社員がいて、これまでの会社人生のある時期にはTさんが私の直属の上司ということもありました。非常に頭が良い人で、仕事熱心であり、私などは随分としごかれて厳しいことも言われたものでした。ただ、部下に対して厳しいだけでなく、社内のエライ人に対してもズケズケとものを言うところは私としては評価しておりました(でもそういったエライ人に対する態度が災いしたのか、社内での出世は決して早い方ではありませんでしたが)。
 熱心なのは仕事に対してだけではなく、会社のテニス部に入っていたり、茶華道部なんかにも顔を出しており、好奇心が旺盛で行動力のある人でした。そんなTさんが辿り着いたのが登山という趣味で、地元の山岳会のようなグループに所属して、ちょくちょく山登りに行っていたようでした。金曜日の夜に出発するということも珍しくなく、山登り用の大きなリュックを担ぎ、足には登山靴という姿で会社に来て、その日は何だか遠足を前にした小学生のようにウキウキした気持ちを抑えきれないのか、朝からソワソワした雰囲気を漂わせていて、定時になるとサッと着替えて山へと旅立っていきました。ある時などは、まだ定時になっていないのに、何かを勘違いしたのでしょうか、Tさんは定時になったと思い込んで、パソコンを閉じて、登山用の服に着替えて、「じゃあ、行ってくるから!」と笑顔で出て行ったことがありました。「あのぉ、まだ定時じゃないんですけど・・・」と心の中では思いつつも、Tさんの楽しそうな姿を見ているとそこで引き止めてしまうのも野暮かなと思い、「行ってらっしゃい・・・」としか言えませんでした。

 何年か前に定年を迎えて再雇用されてからも、Tさんは趣味の登山はずっと続けていたようで、毎年元日に届く年賀状にはそのシーズンに登りに行ったいくつかの山で撮った写真にコメントが添えられていて、いまだに活発に行動しているんだなあと感心したものでした。

 そして先週末、冬山登山に出掛けたTさんは、そのまま帰らぬ人となってしまいました。滑落したのだそうです。あまりの突然の出来事に驚き、たいへんショックを受けました。御遺族の意向により、我々社員がその事故を知ったのは葬儀が済んだ後でしたし、新聞やニュースでも発表もされなかったようなので詳しいことはわかりません。

 悲しい出来事ではありました。60代前半というまだまだ若い年齢でこの世を去ったわけですが、エネルギッシュに生きて、濃い人生を送ってきたTさん自身は、意外と悔いは無かったりするかもしれません。御冥福をお祈り致します。(合掌)